発 言 2017年9月16日更新

「ニューノーマル」のとてつもなく深い意味
 この10ヶ月ものあいだ、ヨーロッパ主要都市でのテロ、中東の一部の国の事実上の崩壊とテロリスト集団の横行、大量難民の発生、アメリカの大統領選におけるトランプ現象やサンダース現象、イギリスでのEU離脱の国民投票、ヨーロッパ主要国での右派の台頭、が続いてきている。
 東アジアでは、北朝鮮の核実験とロケット発射が続き、中国の海洋進出や韓国の竹島での行動などが起こっている。
 日本では、それらの動きを根拠に、昨年強引に成立させた安保法制を実質化しようとする動きが続き、7月の参院選の結果などをふまえて、沖縄のへり基地や辺野古新基地の建設を再開しようとする動きが強まっている。
 これらをつうじて大きく見えてきているのは、欧米日「先進国」が16世紀以来つくりあげてきた世界秩序への、旧植民地従属諸国の異議申し立てであり、新秩序形成への要求と動きである。
 欧米日「先進国」が大きな歴史の動きに気づき、過去の植民地主義帝国主義を真摯に反省して、旧植民地従属諸国の意向を組み込んだ新世界秩序形成への展望を示す以外にない。
 日本は朝鮮半島と中国というもっとも近い友人を植民地従属国化しようとしただけに、それだけきびしくこれら諸国から批判され続けている。
 日本はそれだけ、この5世紀に形成されてきた世界秩序への責任を自覚しやすい立場にある。その立場を生かして、韓国や中国にたいして率直な反省と謝罪の態度をとるだけでなく、欧米諸国にたいして旧植民地従属諸国の意向を代弁し、それを生かした新世界秩序へのリーダーシップを取るべきなのである。
 リーマンショック後に経済学で使われるようになった用語を転用し、冒頭に述べた現実を「ニューノーマル」とみる見方がある。
 かりにそうするならば、「ニューノーマル」の意味は、この5世紀の世界史を背負うほどとてつもなく深いのである。
 (2016年8月17日)


主権者[民衆]パラダイムの意味
 
近代世界を造り始めたのは金持ち市民(ブルジュワ)でしたが、ブルジュワが労働者を搾取しているとして労働者主体の新社会づくりを呼びかけた労働者[プロレタリア]パラダイムは、20世紀に国家社会主義となり、民主的自己変革の装置を見いだせず、頓挫しました。
 他方、19世紀から労働者が始めた普通選挙運動は世界の多くに広まり、普通市民(シティズン)の社会への道を拓き、米ソ冷戦終結後は市民[シティズン]パラダイムを普遍化していくように見えました。
 しかし、21世紀になって世界のポストコロニアル性が顕著となり始め、かつて植民地支配に協力した市民や、国内的にも都市中心で地方農山漁村を軽視してきた市民の問題性が浮かび上がってきました。
 主権者[民衆]パラダイムは、苛烈な民族解放闘争と解放後の反軍事独裁民主化闘争を勝ち抜いてきた旧植民地・従属諸国の民衆の立場に立って、先進諸国の市民にも自己変革を迫りながら、世界各国の民主化と国際社会・世界社会・地球社会の民主化を実現していくためのパラダイムです。
 民主社会の内容は、民主化の徹底を図りながら討議で決めていきます。(2015年3月19日)


主権者の、主権者による、主権者のための社会学:真にグローバルな社会学のために

 真にグローバルな社会学は、西ヨーロッパに発し、北アメリカや日本を初めとして世界に普及した市民社会パラダイムの超克として、形成される。ブルジュワとしての市民は、絶対主義国家や国民国家を先兵として、「一株一票」制の企業で世界を制覇し、世界の大部分を植民地にした。他方、シティズンとしての市民は、アメリカ独立革命とフランス大革命によって突破口を開かされ、労働者、少数民族、女性などの参政権獲得運動に譲歩を重ねさせられて、一人一票制の民主社会への途を拓かされてきた。市民社会パラダイムは、この過程をつうじて形成されてきた、人間、社会、経済、政治、文化へのもっとも基礎的な見方である。

 植民地化された人びとは、この見方を押しつけられながら、自分たちの文化を基礎にシティズンの論理を転用し、独立し、開発の必要性と軍事力の自律化による独裁の生成に悩まされながら、民衆の力を基礎に民主社会への展望を拓いてきている。民衆の大部分は、市民社会パラダイムの視野には入っていなかったサバルタンであるが、今や主権者である。その視点から先行市民社会を見ると、イギリス、アメリカ、日本を初めとして多くのところで、選挙制度と政党制度は不完全で主権者の意思を正確に反映しておらず、それら社会に基礎を置く一株一票制企業の、法人化され、グローバル化したものが、世界経済を支配している。先行市民社会はいまだ十分に民主化されておらず、市民と呼ばれる人びとの大部分は、主権者ではあるが、事実上のサバルタンである。

 学問的帝国主義を排し、多遍主義を恐れず、各国社会の民主化と、それをふまえた国際社会の民主化を進めるための、社会学を創始しなくてはならない。そのために、主権者の意思を正確に政府に反映するための政治社会学と並んで、協同組合や労働組合など、主権者のための非営利の事業や権利擁護の装置を推進する経済社会学とが必要である。この二つと、それらを法律的かつ意味的に関連づける主権者の文化社会学とによって、市民社会パラダイムは、より高次の民主社会パラダイムに止揚される。

 (2013年11月21日)


なぜ主民なのか?
 
民という言葉に違和感を訴える人びとにたいして、それは歴史的かつ理論的な考察が足りないからだ、と説得しようとしてきた。
 たしかにブルジュワとしての市民は金持ちで、その金を資本として、一株一票制で方針を決めていく事業を起こし、世界を経済的にばかりでなく政治的にも支配してきた。
 しかし、彼らは王(Sovereign)から権力を奪うために一人一票制の民主主義を始め、労働者、少数民族、女性などからの抗議を受けると、その原則の普遍性を否定できず、普通選挙制を認めてきた。
 だから、労働者、少数民族、女性など不利な立場に立つ人びとは、この意味での、シティズンとしての市民の権利を主張し、自分たちの意に沿う政府をつくって社会を変えていけば良いのだ、と。
 しかし、選挙権は与えられても、多くの国で選挙制度は人びとの意思を正確に反映するようにできておらず、したがって人びとの意思を正確に代弁する政党も育っていない。
 経済的にはもっとそうだ。金持ちが始めた事業が当たり前のことと思われていて、そのための法制は充実しているが、人びとが自分たちのなけなしの資金で、しかも一人一票制で始める協同組合のような事業はいろいろな意味で制約されていて、発達させにくい。
 憲法で主権者と認められていても、多くの人びとは自分たちの意思を自由に、かつ実効性あるやり方で表明できていないのである。
 この意味で私たちの多くは、先進国にあっても、諸制度の枠外の者つまりサバルタンなのである。
 サバルタンたる私たちは本当の意味での主権者たる民衆(sovereign people)、つまり一人ひとりが主権者(sovereign)にならなくてはならない。
 社会学はそうなることを可能にするような学問でなくて、何であるのか?
 私は、この考えのもとに、社会学を全面的に組み直さなければならないと考えている。その内容を2014年7月に横浜で開かれる世界社会学会議で発表したいと思っているので、その構想を以下で見てほしい。

 (2013712日)

あらためて市民とは?
 市民とは、自分の生き方を自分で決め、自分たちの社会のあり方・行き方を自分たちで決めていく人間である。
 したがって、市民たちの社会の政治的な指標は、普通選挙制度の定着である。
 世界には、そういう意味での市民社会がどんどん増えている。
 今そうとはいえない社会も、近い将来そうならざるをえないと思われる。
 他方、そうなっているはずの社会でも、市民たちの意思が議会や政府に正確に反映していない社会が多い。
 民主主義の祖国であるかのようにいわれるイギリスやアメリカが、二大政党制と小選挙区制から抜け出られないでいるのが、その象徴である。
 世界の選挙制度を比較し、もっとも良く市民の意思が反映している制度が普及するよう、市民たちは努力しなければならないと思う。
 日本の201212月の選挙をふまえ、2013年はまずそこから出発したい。
 (201311日)


市民社会化の新段階
 ある新聞の記者から、脱原発をめぐる首相官邸周辺のデモが地方都市にも波及しつつあることをどう考えるか、という電話があった。
 市民社会化の新段階、本当の市民社会化が進んでいるのではないか、と私は応えた。
 戦後のある時期まで、デモのほとんどは、組合や政党の動員したものであった。
 1960年安保闘争の前後から、市民主義が生まれ、ベ平連などの平和運動や住民運動や環境運動などが展開された。
 しかし、その広がりには限界があった。市民たちの動きを媒介するメディアがなかったからである。
 インターネットの普及で、そのようなメディアが形成された。市民たちは今やマスコミのバックアップを必要としなくなった。
 大衆化の方向に流されることのない、自立的な市民たちが育ち始めたのである。
 政党は今後、この動きに対応しないと伸びることはできない。
 市民たちは自分たちの行動で、市民民主主義の実質を変え始めているのである。
 (2012817日)

社会の再建のために自覚的に生きる意欲を! 2012530日(水)
 市民学(市民の社会学)に生命を吹き込む作業を続けています。
 最初の大きな山は越えたので、作品を発表できる状態にはなりました。
 しかし、できれば次の山を越えてから、すなわち展開のめどが立ってからにしたいと思い、苦闘中です。
 求めているのは、自分も含めて人間はどうしたらやる気になるのか、つまりどんな場合に積極的に生きる意欲を出すのか、という問いへの答えです。
 今、市民に必要なのは、自覚的に生きる意欲です。
 社会の再建のために生きる意欲とはどのようなものなのか、を示したいと思っています。
 2012530

あらためて市民の社会学を! 2012320
 東日本大震災と福島原発事故から1年がたちました。
 自然災害の発生可能性とエネルギー源選択の方向性を踏まえた社会理論の再構成に取り組んでいます。
 社会学を市民の社会学、つまり市民学として再構築しようとしていくなかで、この課題を解決できないかと思っています。
 鍵はやはり生態系内在性でしょう。
 社会膨張があくまでも生態系展開の一部であること、したがって生態系を載せている地球の物理に左右されること、太陽系のなかの地球が恒常的にもつエネルギー源、すなわち太陽光熱を最大限に利用すること、が基本でしょう。
 地球上のあるすべての国の市民社会化は揺るがしえない趨勢です。
 社会の市民化の徹底のなかで、この可能性を実現していく方法を考えたいと思っています。

自然・社会災害を社会理論のなかに! 2011618
 東日本大震災の経験を、自分の作品にも、大学生協の活動にも、日本協同組合連絡協議会が中心になって進めている協同組合憲章づくりにも、取り込もうと努めています。
 そうしてみて気がつくのは、これまで社会科学が、自然災害を、自然災害が基礎となって起こる社会災害を、理論のなかに組み込みえていなかったのではないか、ということです。
 日常の気象変動もこれまでの社会科学は理論のなかに組み入れてきていません。
 しかし、昔から干魃や冷害が社会に大きな影響を与えてきたことは明らかで、今日では、地球温暖化によって、逆に社会が気象変動に大きな影響を与えてきていることも明らかです。
 環境問題も、社会の自然汚染が自然の懐の深さに吸収されていたあいだは問題化しませんでしたが、自然の許容限度を超えていらい一挙に大きな社会問題になりました。
 自然・社会災害も、社会が地球生態系のなかでしか存続できないという、生態系内在性に起因する現象です。
 そういう角度から社会理論のなかにしっかりと取り入れていかなければならない問題だと思います。
 そういうことがけっきょくは自然・社会災害の予防にもつながるはずです。

東北関東大震災で被災された方がたに 2011330日(水)
 教え子の一人に世界市民、地球市民の夢に共鳴し、日本赤十字社に就職した若者がいました。
 ネパールに井戸を掘る事業など途上国の人びとのために、日曜日も社に出るような働き方をしていて、とつぜん倒れ、夜遅くまで誰にも気づかれず、逝ってしまいました。
 今回、東日本大震災で被災された方々のためにわずかばかりの義援金を送ろうと思い、どこから送ろうかと思ったとき、彼のことを思い出して日赤から送りました。
 そのほか私の属する学会や大学生協連などをつうじて、できるかぎりのことをしているつもりですが、一市民にできることは限られています。
 犠牲者や被災者の方々の経験を無駄にしないためにも、今執筆中の市民学のなかに今回のことをよく考えて盛り込んでいこうと思っています。
 不自由な生活を強いられている被災者の皆さん、どうぞがんばってください。

東北関東大震災で被災された方がたに 2011316日(水)
 東北関東大震災で被災された方がたに
 心からお見舞いを申し上げます。
 何ができるか、考えています。
 できるだけのことをしたいと思っています。

ホームページ創刊の辞 200411()
 
社会学はほんらい市民の学です。
 社会学者庄司興吉は今、市民の社会学をつくるべく全力を傾けています。
 市民とは、自分が生きる社会のあり方、行き方を自分で決めていく人間のことです。
 だから、市民にとってこそ社会学が必要なのです。
 庄司興吉は、社会学者としての長いあいだの研究をつうじて、ますます強くそのことを感ずるようになりました。
 これから先、この世界に生きるすべての人にたいして、そのことを訴えていきたいと思います。
 なぜなら、この世に生きるすべての人びとこそ、市民なのですから。