040703

 

 地球市民って、どんな人?

 

庄司 興吉

 

  地球市民って、どんな人のことだろう?

 この問いにたいする答えは、すでにさまざまな人びとによっていろいろに与えられてきているし、これからはもっともっとそうなっていくと思う。

 だから私は、地球市民とはこんな人のことだとあらかじめ決めてしまわず、さまざまな人のいろいろな試みをつうじて、おのずからそうなるように決めていけばよい、という考え方に賛成である。志ある人びとの自由で創意に満ちたさまざまな試みに任せ、いわば帰納的に、多様性を認めながら、地球市民とはこんな人のことだというふうになっていくのを待てばよい。

 でもこの途中で、あまりにも議論が錯綜してきて混乱してしまうときなどには、定義やだれもが認めそうな公理的命題などを整理しながら、地球市民とはこんな人のことらしいと論じてみるのも悪くはないだろう。とくに地球市民などというものを考えてみようとするときには、理論らしいものが必要となり、理論は帰納から自然に出てくるものではないので、あらためて定義や公理的命題から出発してみることが必要になる。そういう過渡期の議論の出発点として、私が今とりあえず考えるのは次のようなことである。

 すなわち地球市民とは、第一に、自分の社会、とくに自分の国のことばかり考えず、それを超えて広く地球全体に思いをいたす人。そして第二に、その広い社会をあらためて自分の社会と考えて、そのあり方を決めていくのは自分と、自分と同じように考える人たちだと思い、それぞれの場でできることをする人。

 第一の点は、理屈としてはもうだれもが認めることかもしれない。この数世紀の歴史が、国民を基礎として創られた国、つまり国民国家を単位として展開されてきたこと。国民国家同士の争いが最後にはいつも戦争となり、数え切れない犠牲者を出してきたこと。そのあげく核兵器が開発されて、皮肉なことに、生き残ろうとすれば、もう大規模な戦争はできなくなってしまったこと。他方、国民国家単位で豊かになろうとする競争、つまり経済成長競争が続けられ、先進国が先頭に立って環境破壊を世界に広げて、地球環境問題をのっぴきならないものにしてしまったこと、など。今日では小学生でも知っているかもしれない。

 でも、今の日本のように「豊かな社会」では見えにくくなってしまった貧困の問題、というよりも貧富の格差の問題が、国境線を無視して地球的規模でみると依然としてものすごいものだということの意味は、今でもなかなか理解されていないのではなかろうか? 今日の地球的規模の貧富の格差が、ここ数世紀の、強国や大国の植民地支配や帝国主義の結果なのだということを理解するためには、私たちは「国民」の視点を脱してみなければならない。とくに日本のような、自民党から共産党までが「国民の皆さん」と呼びかけ、選挙でも「日本の国の将来」や「日本の国際貢献」しか主な争点にならないような国では、そうだと思う。

 このことが第二の点にもつながる。国民でなければ、では何なのか?

 市民である。市民というのも西ヨーロッパ原産で、強国や大国の世界支配とも結びついてきたから、そうした支配の犠牲になってきた途上国などで、これにたいする警戒心が依然として強いことには配慮しなければならない。だからそういう配慮をしながら、市民というのを、自らの生きる社会のあり方を自ら決めていく人間と考えて、その欧米的限界を乗り越えて展開していこうとすると、その先に地球市民が見えてくる。

 そのために、私たちはまず、日本「国民」を脱して日本市民にならなければならないだろう。欧米ではすでに、EU市民とか合州国市民とかいうのが当たり前になっている。日本人もまず日本市民になり、それからアジアの市民になり、そして地球市民をめざさなければならないと思う。

 このように、地球市民とは少なくとも、根無し草のコスモポリタンなのではない。地球上のさまざまな地域の人びとが、それぞれの自然的文化的つまり風土的背景を生かしながら自己主張しあい、討議をつうじて地球的規模に広がる共同性と公共性を築き上げていこうとすることこそ、地球市民らしい振る舞いなのである。

 地球市民って、とりあえずそんな人なのではないか!


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